元旦 鹿島神宮 東国三社巡り ➋

懸賞 2017年 01月 17日 懸賞

12月15日【息栖神社ここクリックの続きです】

三社の位置                   
        1,300年前から明治初期まで             現在                 d0009105_124121.png d0009105_124731.png








国は本気で埋め立てしたのね。





10月に行った、米国の宇宙飛行士が宇宙から日本のある場所が光っているのを見て、訪ねてきたという【御岩神社】ここクリック
創立年代が古すぎて不明なので、創立年ランキングに一度も入ったことがないそうですが、この鹿島神宮も相当な昔。
ランキング一例ここクリック



【鹿島神宮】ここクリック
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常陸国(茨城県)の一之宮である鹿島神宮は、全国に約600社ある鹿島神社の総本社です。
創建は神武天皇の時代と伝えられており、関東の中で最古の神社です。

「神宮」と名の付く神社は今ではいくつも見られますが、
平安時代から、伊勢神宮の他に神宮と呼ばれたのは、この鹿島神宮と向かい側の千葉県にある香取神宮だけだそうです。

主神は武甕槌神(タケミカヅチ)。アマテラスに命じられ本拠地鹿島から、神栖の天鳥船神(息栖神社の)に先導され、出雲の大国主と和平交渉して成功した神様です。

平安時代には、鹿島出身の藤原氏(中臣)の勧請で、御蓋山(三笠山)→春日大社へ、この鹿島神宮のタケミカヅチ神のご分霊が、息栖神社のアマノトリフネ神の先導で、白い神鹿に乗って行きました。(50年後の政変時に、次に書く香取神宮のフツヌシ神(経津主神も勧請されました)

このとき、旧地名「香島」(かぐしま)(かしま)だったものを「鹿島」と称するようにと。

だから、春日大社には社殿が更にお迎えした二神を含め、四つ並んでいるんですって。
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ですので、春日大社と奈良公園の鹿のルーツは鹿島神宮。(鹿島で一度、絶滅して一部が里帰りして現在に至るww)
 今公開されている国立博物館の「春日大社 千年の秘宝展」にも行きたいな~。
ここクリック
同じ神様を祀っているのに春日大社はうまいですよね。朝廷の庇護を受け続けていたというのもあるし、祀り方も華やかであでやか。おかげで世界遺産にもなりましたね。


鹿島神宮は440,000坪と広いけれども、文禄四年さらに佐竹氏が改めて29,900石を寄進したのに、豊臣秀次に500石に減らされたり、大火にあったり不運も。
一石は約300坪だから8,970,000坪が、1,000坪になっちゃったわけね。
この年、秀次は秀吉の怒りに触れ自害させられたそうな。神罰かしらん。
 もしそのまま頂ければ、9,470,000坪だったのにね。それでも伊勢神宮に遠く及ばないw
ちなみに伊勢神宮は27,500,000坪ですって、世田谷区ぐらいだそうな。すごい…

その昔、遷宮も行われていて、明治初期までは斎王制度があったそうです。お役目は神官のお嬢さんが。


行く前に図書館で常陸国風土記はじめ、探せるだけの三社関係の本を読んだのですが、特にこの本は素晴らしい内容でした。昭和43年出版の先代の大宮司の書かれた本で、「ほー」とか「へー」とか「え、そうだったの!」というところをコピーしようと付箋を付けていったら、ほとんど全部になってしまい(^^;)買うことにしました・笑
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(鹿島神宮だけではなく、古事記や地誌など、並々ならぬ知識に感嘆。また戦後はGHQに皇室から厚い御崇拝を受けていたため睨まれ、ジープで石段を乗り上げてきたなんて話も)


さて、鹿島のタケミカヅチ神のご分霊は、白鹿に乗り、数々の鹿を引き連れて春日大社へ向かいます。
立ち寄った東京の江戸川区にゆかりの鹿骨(ししぼね)という地名が残っています。
(東京に地名変更の嵐が吹き荒れた時に、地元の人々の大反対でこの地名が残ったそうです)
町のあちこちに鹿の像がd0009105_20284147.jpg
だから小中学校やバス停などにも^^

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鹿骨神社 鹿の像がありますね

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 「…神護景雲元年(西暦767年)に、藤原氏は氏神である鹿島の大神の 御分霊を奈良にお迎えして春日神社を創建しましたが、そのとき、御分霊を神鹿の背に乗せ、多くの鹿を連れて一年がかりで奈良まで行きました。
その時の鹿の足跡が、東京都江戸川区の鹿骨をはじめとして、東海道を三重県の名張まで続いて残っています…
村の口碑によると、常陸の国鹿島郡の鹿島大神が、大和国奈良の春日へお移りになる途中、大神のお供をしていた神鹿が急病でたおれたので、村人たちが丁寧に葬って祀ったのが鹿見塚で、村人たちは、これを奇縁として武甕槌命の分神と天照大御神ほか三神を勧請して一社を建立し、鹿島神社と名づけたともいわれている」(江戸川区教育委員会)

          鹿見塚神社や鹿島神社もあります。d0009105_20321599.jpg






また滋賀県草津もお通りになり、立木神社も出来ました。d0009105_20345394.jpg立木神社について
ここクリック
あちこちに足跡が残っているんですね。










神宮橋から見える 海鳥居(一の鳥居)
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水に赤い鳥居は美しいですね。

バスからは見えませんが、海岸の二の鳥居
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(昭和初期頃)護岸が出来ているけど開口部がある

        (昭和中頃)
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護岸が高くなり塞がれてしまった


             (3.11地震後)d0009105_1337204.jpg
護岸が更に高くなり、海から入れない現在。仕方ないとはいえ、海も見えないし、ちょっと悲しい。






境内図
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楼門を過ぎるとほとんどすぐに横向きの本殿が。


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  d0009105_13523227.jpg楼門

手水には10mほども並んでいましたが、大き目の手水舎に柄杓がたくさんあるので意外に順調に進みました。
あとは並ぶ指示がないので、沢山の人で大混雑ではありますが、広い境内、それなりにお参りは出来ました。




楼門を入り正面に小さな高房社。
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本宮の社殿正面に鎮座していますが、全く目立たないのでほとんどの人がお参りしないけど、本殿に詣でる前に参拝するのが古例なんだそうです。
祀られているのは建葉槌神(タケハヅチ神)。
 タケミカヅチ命は葦原の中つ国をことごとく平定しましたが、星の神の香香背男(カガセオ。アマツミカボシとも)だけは服従しなかったので、建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したそうです。
 本殿の真向かいに、小さいとは言え祠を作って祀るのは功労賞でしょうか、とても珍しいのではないかと。
 服従させられた天津甕星(あまつみかぼし)。別名、天香香背男(あめのかがせお)、星神香香背男(ほしのかがせお)。多分、金星でカガは輝き、金星ではとのこと。
古代、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを、「まつろわぬ神」として表しているんでしょう。日立と水戸の間の大甕という土地には「大甕神社」というカガセオを祀った、比較的大きな神社があります。(天津甕星この人"神"だけど気になります)

上の写真は左が仮殿です。
 もともと20年に一度本殿は建てなおしたり修理してきました。その間本殿の神魂は仮殿に御移りになられるのですが、この仮殿の位置は何度も変更になったようです。
昔は楼門をはいって正面にこの仮殿がおかれたこともあったと書かれていました。
 写ってないけど右側に拝殿と本殿。


拝殿
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他には見られない北向きに建てられています。人が多いので上の方だけ。

本殿内陣は、出雲大社とほとんど同じに神様の位置が横向き
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 ちなみに、出雲大社の内陣。d0009105_1484731.jpg








なので人が居ないから横へ周り、独りお参りしました。警備員さんが怪訝な顔(笑)
本殿横d0009105_14215360.jpg












【宝物館】 
国宝、重要文化財、茨城県指定文化財、その他御神宝の数々を収蔵展示しています。
 圧巻は、国宝「直刀 金銅黒漆平文大刀拵」(じきとう こんどうくろうるしひょうもんたちごしらえ)
通称「韴霊剣」「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)全長約2m71cm・刀身2m23cm奈良時代
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『常陸国風土記』には、慶雲元年(704年)に鹿島の浜の砂鉄で剣を造ったと記されています。(「風土記の考古学」ちょっと読んだ。)

「平国剣」(くにむけのつるぎ、ことむけのつるぎ)とされ、戦いの刀ではなく、一振りで国を平定する神刀ということ。
日本神話「国譲り」において葦原中国(あしはらのなかつくに)を制圧するために、タケミカヅチが力を発揮し、神武東征の際、危機に陥ったイワレビコ(神武天皇)を助けるために、タケミカヅチが進呈し、その霊力によって難局を乗り切ったということが言い伝えられています。
(あまりに長いので、相当下がらないと全身の撮影が出来ないそうです・笑)

その後、剣は神武天皇即位後に宮中に祀られ、のち崇神天皇の御世に石上神宮(奈良県天理市)に遷され祀られたとされたということになっているそうですが、HPを見たところ、石上神宮の剣は全く形が違うようですね。禁足地から発掘されたそうですが、それがフツノミタマノツルギとどうやって確認したのかな…
(アマテラスに命ぜられるまま、出雲で和平交渉、神武を助けるたけ大事な剣の貸し出し、おまけに取り上げられちゃって…良かったのかね、でも本物はあるもーんて? ^^;)


境内
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人がいないとこんな様子ですね。

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素朴で原初の宮の姿を思わせます。


更に奥にある御手洗池d0009105_212953.jpg 鯉がd0009105_2124629.jpg
素晴らしく透明。 昔はこちら側から入り、ここで禊をしてから参拝だったそうな。
子供が入っても大人が入っても水が胸の高さまでという言い伝えが。
















要石d0009105_213299.jpg


               鹿園の鹿
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    さざれ石d0009105_214365.jpg










境内内外にたくさんの摂社・末社・元宮などがあります。  
 摂社のひとつ三笠神社
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祀られているのは「三笠神(みかさのかみ)」となっており、神宮のHPでは「古い記録には「甲宮三笠大明神とも申し奉る。または山の神とも申す。地守の神なり」とあり、三笠山の名前は、奈良の春日へ御分霊奉遷のとき一緒に遷って奈良の「御蓋山」(みかさやま)となったと伝えられています。」 と書かれています。
この鹿島神宮創建の時に、この鹿島の森は三笠山と称されており、そこに鎮座していた神社のようです。いわゆる鎮守の森の神だったのでしょうかね。


撤下 神饌(てっかしんせん)を頂きました。
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撤下神饌とは、お供えした神饌の一部をお下がりとしてみんなにお頒ちするもの。
若布とアオサ入りとろろ昆布、神札等。神様の食べ物の御裾分けですね^^
 奉献の品は嵩張らず軽い物をと、小さなお菓子を持参したので恐縮しました。

三社守りd0009105_2183236.jpgd0009105_2194715.jpgイチイの木で作られた三角柱の三面に各社の神印。三社を巡って授いた神紋を貼るお守り。
 左の赤いのは三社を巡った記念に頂いたお守り。


d0009105_21102355.jpg三角柱、これがわかり易いね。↓













御朱印
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三社の神札
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【おまけ】
うつろ舟d0009105_2113257.png(是非クリックして拡大してね)
江戸時代のUFOか、潜水艦か?








馬琴の記事より抜粋『享和三年(1803年)の春二月二十二日、当時寄合席の小笠原越中守(石高四千)の知行所、常陸の国「はらやどり」という浜で、沖の方に舟のようなものが見えた。
浦人たちが小船で出て浜辺に引き寄せてみたところ、舟の形は香盒のように丸く、長さは三間(約5.45m)あまり、上は格子のガラス窓で樹脂で固めてあり、底は鉄の板を筋のように張り合わせていた。おそらく岩礁から船底を守る工夫だろう。
 皆で上の方から舟の内側を覗いてみたところ、見慣れない風貌の女性がひとり乗っていた。
その眉と髪は赤く、顔はピンク色。髪型は白くて長い辮髪で、背中に垂らしていた。
言葉が通じないので、どこの者か尋ねることもできない。
この蛮女、二尺(約60cm)四方の箱を持っていて、特別愛着のあるものとみえて、片時も離そうとせず、誰にも触らせようとしなかった。
 船中にあるものをつぶさに調べたところ、水二升が入った小瓶、敷物二枚、菓子のようなもの、肉を練ったような食料があった。蛮女は浦人たちが集まって話し合っているのを、微笑みながらのんびり見ているばかりであった。
古老が言うには、「これは蛮国の王の娘が他所へ嫁いだものの、不貞が発覚して相手は処刑、娘はうつろ舟に乗せて流すことで生死を天に任せたのではないか。(中略)昔、やはりこのように蛮女がうつろ舟で流されて近くの浜に漂着したことがあった。(後略)」と。
 これがお上に知られては村の負担も大変だ。海に戻してしまった先例もあるのだからと、また元のように舟に戻して沖へ引いて流してしまったという。
 もし思いやりの気持ちがあれば、こんなひどいことはしなかったであろうが、こればかりはその蛮女の運命が不幸であったというしかない。
また、蛮字がたくさん書かれていたとのとだが、後で考えれば最近浦賀の沖に来たイギリス船にもこのような蛮字があった。ということは、その蛮女はイギリスかベンガル、もしくはアメリカあたりの蛮王の女ではなかろうか。
当時の好事家が書き写して伝えたものは、そのようなものであった。図説ともに大雑把で具体的でないのが惜しい。もしこのことをよく知る者がいるなら、ぜひ詳しく聞かせてほしいものだ』

ほとんど同じような絵と内容の書が数か所に残り、とひとつの村では公式書類として残っているそうです。
流されてあちこち漂着したものか、伝聞で書いたところがあるのか…ひとつには女は死んだというのも。
  海岸を持つ県は面白い逸話が多くて楽しいですよね。



☆☆☆決められた滞在時間、1時間20分ではとても足りませんでした。境内外の摂社や元宮なども見たいので、良い季節になったらまた行きたいと思います。「鹿嶋 神の道」というウォーキングコースもあるそうですので♪


※※ 香取神宮・まとめへ続く









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by bumidayat | 2017-01-17 22:49 | お出かけ

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