洗濯

懸賞 2009年 08月 28日 懸賞

☆古代は洗濯はどうしていたのか気になり、検索してみた。
桶やタライを使うようになったのは平安時代だそうだから、
それ以前の奈良時代などは、やはり川や泉で洗うしかなかったんだろね。

叩き洗いや踏み洗い?、冬は煮洗いかも・・・
洗濯する者にとって、タライは画期的なものね♪
正倉院に残された書物類の中に、宝物の仕分けなどのために働いていた
今で言う下っ端公務員の出勤簿には、洗濯休暇願いのようなものがあるそうだから
(ついでに、地方から集められ、かなり長時間、長期間の籠りきり勤務だったのが分かった)
相当長い間、着たきりだったんだろう。宝物殿はけっこう臭かったかも(^^;)

貴族階級やそれ以上の人は絹物が多かっただろうから、洗い張りをしていたのかしら。
まぁ香など焚いちゃって誤魔化し、たまにしか洗濯って出来なかったでしょうね。
下賜して新しいのを着ていたのかも。

洗剤としては、ムクロジ(羽子板の羽の先の玉っこ)、夾竹桃、などが使われていたそうでサポニンが効果があるのが分かっていたのね。
ポンペイや韓国の水場の遺跡では、おしっこの成分が検出されたそうだから、アンモニアも洗浄効果があると知っていたんでしょう、韓国でということは日本でも使用されていたのかも。
遺跡発掘では建物の跡などが分かるけど、そこで具体的に何をしていたかは分かり難い。そこで
万葉集とか文学的に研究者と連系して調べると人が何をしていたか分かってくるそうだ。
学者も横の繋がりが大切だね^^
特に歌には人を詠んだものが多いから着るもの食べるもの等の風俗から、遺物や遺跡が何に使われていたのか分かるそうだ。
川で洗濯中の乙女を、狩の途中に若い天皇が見染めて召しだす、なんて詠から川の傍の遺跡の水場跡が妙にただっ広いわけとか・・・

☆平城京で寺の力が強くなりすぎて閉口していた桓武天皇は、平安京には全く寺を作らなかったそうだ。
だから築京以前からあった寺以外は皆無で、現在ある多数の寺は全て鎌倉時代以降に作られたんですって。
京都と言えば、寺ってぐらいなじんでいるものな~。でも千年の都の歴史の中では、あそこにある寺々は新しいわけだ(笑
まぁ歴代の天皇は権力を手に入れる道具として、神や仏を利用していた部分もあるから、その時代時代で残っている建物って違うわけだし・・・
うーん知らなかったことばかり、と言うより学校で習ったことを忘れ却っているのだな(^^;)


奈良時代の上流階級の女性は身動きしやすいファッションだったから、なかなか行動的であったでしょうけど(故に天皇になったりも出来たって考えると面白い)、
平安時代の十二単なんてなると、重いし引き摺らなくちゃ動けない。
だからほとんど立ち上がらず、いざって移動。→足が萎える→夜這い拒めず。いや矢印からの部分は私の想像です(笑
そんなだから、身の周りは全て雇い人がするわけで、親が死んだり家が没落したり、良いダンナが見つからない場合は、餓死したり「貴族の姫じゃ」を売り物に身を落とすしかないという状態が多かったとか。

鎌倉時代くらいまで、ほとんどの庶民は竪穴式住居で素焼きの土器のような器で食事してたそうです。
平安時代に生まれていたら、十二単が重いから嫌だわ~なんて言うけど、
どうせ庶民に生まれていただろうし、上流でもどの時代でも、生まれ変わるのは嫌だわ(笑
あ、庶民なら江戸時代なら多少いいかもね。でもタライで洗濯はもうしたくないな。
まぁどの時代に生まれていても、才能と才覚がなければ生き残れないってのは同じだけど^^;


洗濯板は、

 春過ぎて夏来にけらし白妙の
          衣ほすてふ天の香具山

持統天皇の時代は、洗った後は、手近な草むら
や河原に、じかに広げて干していたと思われますね。
物干し竿は、平安末期に登場したらしいです。

『徒然草』には、踏み洗いする女性の白い脛に見とれて、神通力を失った法師の話が出てきますし、踏み洗いのあとは草むらに干された衣がひらひらしていたんでしょう。タライが登場するということは、庶民の着物が足ではなく手で洗えるくらい薄く柔らかくなってきたということですから、もみ洗いすることが増えたでしょうね。
使われていた器物が分かると、それを使って作業していた物が芋づる式に想像出来ます。

明治時代、洗濯板はポルトガル辺りから中国経由で伝えられたとかどこかに書いてありました。
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by bumidayat | 2009-08-28 03:03

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