父の命日・ドクハラ・連休
2005年 05月 01日今ではドクハラなんて言葉もでき、横暴な医者を糾弾していますが、
父もその被害者でした。
狭心症のため通院していた病院で、いつもと違う痛みを訴えたのですが、
原因が分からず
医者は父を見もせず「医者の前では年寄りはなんでも大げさなんだから」と、突き放したような言い草。次に行ったときも、診察室に入ったとたん「わざと具合が悪そうにするんじゃないよ!」などと言い、全く相手にしてくれませんでした。
何度も発作のようなものが起こり、その度にこんな対応で、父は痛みと不安からノイローゼ状態になり、暗い部屋で電気も点けず、うずくまってすすり泣くようになってしまいました。発作状態がおさまって行ったせいもあるかと、起こった時に妹が一緒にタクシーで病院に飛び込み、診て貰いましたが、やはり冷たい態度だったそうです。 この間に3ヶ月が過ぎていました。
このままでは父は大元の病気より先に、精神的にまいってしまうと、元の実家近くの内科・放射線科の先生に相談しました。昔から風邪などでいつもかかっていた医院で、今は二代目の若い先生でしたが、父もよく知っているので少し安心して診察が受けられました。
診断は、ガンの疑いがあるので詳しい検査をするようにと紹介状を書いて下さり、
父には検査のことだけを告げてくれました。
すぐに検査をし、結果は「肺ガン・小細胞ガン」でした。
すでに転移も始まっており、余命3ヶ月とのこと。
父はやさしくて気の小さい人でしたので、自分がガンと知ったらショックでそのまま…あり得ることなので、とても言えず、
抗ガン剤である程度延命できそうなので、入院治療が始まりました。先生方はやさしくて、父は心底ホッとしたようです。
告げられた架空の病名にも納得し、抜け落ちる髪のことも私達に説明してくれる程、先生方を信頼していたようでした。
もし、3ヶ月前に病気が分かっていたら・・・と、妹と私は暗澹たる気持ちでした。医療過誤で訴えられないものかと思いましたが、考えたら「過」でもなく、「誤」でもなし、『何もしなかった』では、どうしようもなく・・・
自分の手に負えない、分からないのなら、検査位してみるとか、小さな病院ではないのだから他の科に回すとか出来たでしょうに。おまけに不安でいっぱいの患者の心を引き裂くような言葉や態度はゆるせません。
***参考までに***
脳に転移してからが早かった。妹から「トイレの場所、どこだっけ」と父が恥ずかしそうに言った、との電話で病院に駆けつけると、歩くのが危なっかしいかんじ。家を出る前に、下着を替えたいと言う父は一人ではパンツをはけず、タクシーにもなかなか乗れなかったそうだ。
診察の時には、かろうじて受け答えができていたが、終わるともう歩けない状態に。
そして、ベッドを整えてもらっているうちに、ろれつが回らなくなった。
ベッドで先生がチェックのための質問に、名前はOkだったが、住所は「商店街」と答えていた。以前住んでいた家の近くに大きな商店街があり、私達家族が長く暮らした場所だったから。父がとても悪くなったのは悲しかったが、妹と二人、ちょっと嬉しかった。
看護士さんが、父の発する言葉が分からず、娘さんなら慣れているから、と通訳を頼まれたが、こんなに短時間でワケの分からなくなった父の言葉にはお手上げ。脳血管の病気のリハビリ中の患者ではないのは看護士さんだって知っているはずなのに。
まあ、しばらくしてに言葉も出なくなったが・・・
食事が摂れなくなり、栄養点滴になり1か月、医師から3回ほど、点滴チューブをはずすか否かの選択を迫られた。(最終的に、点滴したまま衰弱してガン死か、チューブをはずして餓死かの選択)
亡くなったのが、ゴールデンウィーク直前だったので、斎場が混んでいて(斎場も連休は休むとは知らなかった) 父は冷凍庫へ・・・
一週間後、父の顔は緑のような紫色のような複雑な顔色で、当然ながらカチカチ。
その6年前の母の葬儀の時は父も現役だったので、参列者が多くて大変だったが、一週間のあいだに、当日来られない方がやってきたりして、初七日になってしまった葬儀は、のんびりしたものだった。準備も妙に落ち着いて出来たような気がする。
***なるべく連休あたりには、死なないようにしよっと***
。
でも、妹さんと心を合わせてお父様を看取られたこと、よかったな、と思いました。お父様も娘さんたちに感謝して逝かれたことでしょう。
また遊びに寄らせていただきますね